2006/09/11

『時間は実在するか』(入不二基義)

本書はマクタガートの時間論に対する批判から出発し、自らの新たな時間論を提示している。

著者はまずマクタガートの時間の非実在の証明を次のようにまとめている。
ステップ1 時間の捉え方には、A系列とB系列の二種類ある。
ステップ2 B系列だけでは、時間を捉えるのに不十分である。
ステップ3 A系列が、時間にとって本質的である。
ステップ4 A系列は矛盾している。
ゴール 時間は実在しない。
(60頁)

そして、この証明の流れを丁寧に追って行く。
およそ300頁の本書の約半分はこのことに充てられている。(〜156頁)

後半は、この証明を逆にたどるようにして検証を行なっている。
その要点を筆者は次のようにまとめる。
1 「実在」という概念が含む複数の意味を考慮しつつ、マクタガートの「実在」観のゆれや不十分さについて論じた。
2 マクタガートと反マクタガートとのあいだの癒着の構造(大きな循環・無限後退)を、証明の中からあぶり出し、さらに、三つの形而上学的な立場(マクタガート・A系列論者・B系列論者)の絡み合いを解きほぐすことによって、「矛盾」の実相に迫った。
3 A系列の内にすでにB系列が食い込んでいることを、マクタガート自身の記述の中から読み取り、A系列とB系列の相互浸透を論じた。さらに、一体化しているA系列と変化とのあいだに、楔を打ち込む可能性についても言及した。
(226頁)


こうして、マクタガートの証明の不完全さを示しつつ、自らの新たな時間論の立場を表明して行く。
この立場では、時間は「関係としての時間」と「無関係としての時間」に大別される。
前者はこれまでのA系列とB系列をともに説明できるような一段上の視点である。
著者は次のようにまとめる。
1過去・現在・未来の水平的な関係と、時制的な観点と無時世的な観点との垂直的な関係
2 「とりあえず性」が含む無関係という関係
(269頁)

ここで、2に見られる「とりあえず性」は、「固定と変化(の可能性)の両方を圧縮して、一挙に表している」(258頁)という。
これを出発点に展開して行くことで、関係としての時間が描き出される。

一方で、「複数ではあり得ないこの今の現実性」など、関係としての時間には含まれてこないものもある。
そこには「とりあえず性」による「原−抑圧」を受ける、「無関係としての時間」が考えられるのである。
しかし、その無関係としての時間は、関係としての時間を通して間接的に示されるのみであるという。

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ちょっとやそっとじゃおいて行かれてしまうほど、色々考えていると思う。
というか、ついて行けてない部分があるので、批判も何もできやしない…。
でも、ついて行けないなりに読みやすいとも感じた。
書いている人がものすごくきちんと内容を整理しているからでしょうか。
また、考察の中で「極限」を考えたり、問題が解消されるというように考えるところは、同著者の『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』との共通性を感じた。

2006/08/31

哲学探究第三版の覚え書きの訳

この第三版についての覚え書き
この版は、1953年に最初に出版されたエリザベス・アンスコムの英訳に、彼女の行なった最終的な改訂を組み込んでいる。また、いくつかの誤植を訂正する機会も得た。この版に際してテキストはページが振り直されている。結果として、上の二つの覚え書き〔第二版、及び第二版の再出版についてのもの〕でのページ数の参照はもはや当てはまらない。
ニコラス・デナイヤー
トリニティカレッジ
ケンブリッジ

2006/08/29

画像対象

ここで、画像対象という概念を導入すると役に立つ。たとえば、次の図は〈画像の顔〉であろう。
わたくしはこれに対しては、多くの点で一つの人間の顔に対するようにふるまう。わたくしはこの表情を研究することができ、その表情に対しては、人間の顔の表情に対するように反応することができる。子供は画像の人間や画像の動物に対して語りかけ、それらを人形でも扱うように取り扱うことができる。(『哲学探究』386頁)


画像対象という概念は、本というメディアの特性上実物を指し示しながらの論述ができないために導入されたのではないか!?
この画像対象という概念により、本の上に描かれた画像が実物に対する画像ではなく、それ自体がある種の実物として対象になると考えられる。
つまり、画像対象は実物と同じ権利を持って、例としてとり上げられているのではないだろうか。

2006/08/14

行為と合理性

行為と合理性---ヒューム解釈の試み---
土屋純一
in 言語・科学・人間 実在論をめぐって
藤田晋吾・丹治信春 編
朝倉書店
1990
163ー188頁

意味盲の人に会ったことがあるか

ウィトゲンシュタインはアスペクト盲や意味盲をめぐる考察を「概念上の探究」と呼んでいた(野家 1993 289頁)
だが、彼の周囲に現実にそのような人はいなかったのだろうか?

2006/08/13

アスペクト問題の出発点(野家)

「したがって、「本当の色」や「本当の形」を決めるのは、ただ実用的な規準だけであり、さまざまな「見え」の中に優劣の差があるわけではない。
しかしながら、一枚の効果があるときには十円玉に、またあるときには百円玉に見えたとしたらどうであろうか。いずれか一方が「正常な知覚」であり、他方は「錯覚」にすぎないのではないか。あるいは錯覚でないとすれば、それらは同一の硬貨の異なる「見え」であるのか、それとも、われわれはそのつど異なったものを見ているのか」

野家啓一(1993)科学の解釈学. 273--274頁

解明 ( カルナップ )

以前から存在している同義性を報告するだけには留まらない、別のタイプの定義活動

解明の目的は、被定義項を完全な同義語にパラフレーズするには留まらず、その意味を精錬したり補足したりして被定義項を実際に改良することにある

クワイン(飯田隆訳)(2003/1992)経験主義のふたつのドグマ(『論理的観点から 論理と哲学をめぐる九章』所収)

2006/08/12

サッカーアスペクトの生成

1.意志に従うアスペクトは要プラクティスでも原初のアスペクトでもいいが、何かがないと成り立たない
2.もしサッカーアスペクトが意志に従うものならば、
3.サッカーアスペクトにもベースになる何かがある

例えばある運動をそれとして捉えるようなことが。
それをベースに戦術的なアスペクトやルールの適用などを見るのではないか。

スポーツにおける倫理と日常の倫理のつながり?

守屋の論文から。

ある種のアスペクト知覚は技術が成立条件となっており、その技術はプラクティスにより成立する。
プラクティスのかたち=生活形式と考えられるので、「アスペクトの知覚は「生活形式」に相対的」である。

さて、ここで、スポーツ場面において目を覆いたくなるようなひどい行為を見るという場合を考えてみよう。
これは見た瞬間に「えっ!?」と声をあげてしまうようなものであり、まさにアスペクト知覚である。
そして、このような反応をきっかけにして、倫理的な問題が問われていくのではないだろうか。
そうだとすれば、倫理的な問題はアスペクト知覚と関わっており、アスペクト知覚は生活形式と関わっているのだから、倫理的な問題を生活形式とのつながりから捉える可能性が考えられるのではないか。

ここで言う生活形式とはまさに日常の生活のしかたである。
ここから、スポーツにおける倫理的な問題を、日常と切り離さずに捉える可能性が見出されると思われる。

クワイン

ホーリズムを提唱したり、翻訳の不確定性についての議論をしていたらしい。
Wikipediaでクワインを検索

AmazonでW. V. クワインを検索


守屋唱進「アスペクトの知覚」@『理想』1984年9月号の参照文献から。
この論文では〈これを見る〉→指示的に透明/〈として見る〉→指示的に不透明とされている。
指示的に不透明とは、ここでは「個体の同一性は個体の呈する相異なるアスペクトの同一性を保証しない」ということを表わしている。

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いろいろとメモする用のブログを開設。
気になった本とか、いいアイデアとかを書きこんでみます。
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