2007/10/18

時間を失う人、ゆとりをもつ人

非本来的に実存する人がたえず時を失っていていつになっても時間がないのに対して、本来的実存の時間性の特徴は、覚悟性において決して時間を失わず、《常にゆとりをもつ》ことにある(ハイデガー『存在と時間』(下)p.375、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫)


いつも「時間がない」人は流れゆく世間にまみれて自分の生を生きられなくなっている。
逆に将来を、そして理想を見据えて自分の生を生きる人には、時間のゆとりがある。

2007/10/02

ハイデガーの「自己」と内省?

自己は実体としても主観としても把握されえないものであり、むしろ実存にもとづくものである(『存在と時間(下)』(ちくま学芸文庫)p.225)


これを次のように捉えることで、哲学の方法である反省的思考、内省というものへの批判と捉えることができないだろうか?

自己、すなわち私とは、実体や主観といった(私の周りにある対象としての)客体的存在者として捉えることはできない。
というのは、そのように捉えようとしているまさにその時の私はその「捉えようとする」というあり方で実存しているのであり、その時に反省的思考の中に現れてくる何者かではないからである。
別の言い方をすれば、その時反省しているものが私だというのではなく、その時反省しているということが私が実存しているということである、というような捉え方か!?

2007/09/30

裁判延期!?

ウィリアムズは人の乗っている車に向かって発砲して、逮捕された。ウィリアムズの弁護士は、この事件の裁判を二年も遅らせることに成功し、ウィリアムズが起訴されてからも、彼は無実に違いないとオズボーンは公言していた。裁判待ちの間に、ウィリアムズはコーンハスカーズの最強ディフェンス・バックとして名を馳せ、九四年から九五年までの全シーズンを通して出場して、ネブラスカ大学でのプレーを終えた。95年シーズンの終わりに、ウィリアムズはグリーン・ベイ・パッカーズと契約した(p.193)

『スポーツ・ヒーローと性犯罪』
※ウィリアムズはフットボール選手、オズボーンは監督。

問題を起こして反省しない選手、フットボールのために裁判を延期する弁護士、その選手を起用する監督、プロ契約を交わすチーム。
それでもフットボールを見て楽しみ、応援する観客、そして地元の人々。
それを可能にする裁判のシステムも…。

「やったもん勝ち」の世界がそこにはあるようだ…。

2007/09/29

陪審員制とスポーツ選手の性犯罪

二人の容疑者を有罪とするには、未成年とセックスをしたという事実を認めればよかっただけなのに、陪審員たちは二人をすべての点で無罪放免とする審判を下した。「未成年とのセックスがあったのかなかったのかが争点だったのに、陪審員たちは、『彼女たちは無理強いされたわけじゃなかったんだから』と頭から聞く耳を持たなかったんです」…「陪審員たちは、未成年とのセックスは犯罪であるという法律を無視したのです」(p.166)

被告のスポーツ選手の方が原告よりたちの悪い性生活癖や性遍歴を持っているのが普通だが、強姦裁判では原告の信頼性が勝敗を分ける。裁判がすすむにつれて原告の人物像が傷つけられるので、英雄視されているスポーツ選手の方は断然有利になる(p.167)

『スポーツ・ヒーローと性犯罪』

印象に左右されるということが起こるのは理解できるが、それによって法律を無視してしまうというのは想像以上。
法律を超える余地を残すことに意義はあるだろうが、「何のための法律か!?」という疑問は起こってしまう。
「それでうまく回っている」というのであれば、口を挟む必要はないのかもしれないが…。

スポーツ選手の性犯罪と人種問題?

スポーツ選手の加害者が圧倒的にアフリカ系なのは、アフリカ系という人種だからというわけではない。それより、社会的に準備のできていない若者、社会生活を営む上での問題を多く抱えている若者をスポーツ選手として入団させる結果、アフリカ系アメリカ人が圧倒的に多いスポーツ選手の加害者が圧倒的にアフリカ系ということになるのだ。(p.16)


短絡的な発想に陥らず、さまざまな事実をよく見て物事を捉えなければならない。