2006/08/12

サッカーアスペクトの生成

1.意志に従うアスペクトは要プラクティスでも原初のアスペクトでもいいが、何かがないと成り立たない
2.もしサッカーアスペクトが意志に従うものならば、
3.サッカーアスペクトにもベースになる何かがある

例えばある運動をそれとして捉えるようなことが。
それをベースに戦術的なアスペクトやルールの適用などを見るのではないか。

スポーツにおける倫理と日常の倫理のつながり?

守屋の論文から。

ある種のアスペクト知覚は技術が成立条件となっており、その技術はプラクティスにより成立する。
プラクティスのかたち=生活形式と考えられるので、「アスペクトの知覚は「生活形式」に相対的」である。

さて、ここで、スポーツ場面において目を覆いたくなるようなひどい行為を見るという場合を考えてみよう。
これは見た瞬間に「えっ!?」と声をあげてしまうようなものであり、まさにアスペクト知覚である。
そして、このような反応をきっかけにして、倫理的な問題が問われていくのではないだろうか。
そうだとすれば、倫理的な問題はアスペクト知覚と関わっており、アスペクト知覚は生活形式と関わっているのだから、倫理的な問題を生活形式とのつながりから捉える可能性が考えられるのではないか。

ここで言う生活形式とはまさに日常の生活のしかたである。
ここから、スポーツにおける倫理的な問題を、日常と切り離さずに捉える可能性が見出されると思われる。

クワイン

ホーリズムを提唱したり、翻訳の不確定性についての議論をしていたらしい。
Wikipediaでクワインを検索

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守屋唱進「アスペクトの知覚」@『理想』1984年9月号の参照文献から。
この論文では〈これを見る〉→指示的に透明/〈として見る〉→指示的に不透明とされている。
指示的に不透明とは、ここでは「個体の同一性は個体の呈する相異なるアスペクトの同一性を保証しない」ということを表わしている。

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