自己は実体としても主観としても把握されえないものであり、むしろ実存にもとづくものである(『存在と時間(下)』(ちくま学芸文庫)p.225)
これを次のように捉えることで、哲学の方法である反省的思考、内省というものへの批判と捉えることができないだろうか?
自己、すなわち私とは、実体や主観といった(私の周りにある対象としての)客体的存在者として捉えることはできない。
というのは、そのように捉えようとしているまさにその時の私はその「捉えようとする」というあり方で実存しているのであり、その時に反省的思考の中に現れてくる何者かではないからである。
別の言い方をすれば、その時反省しているものが私だというのではなく、その時反省しているということが私が実存しているということである、というような捉え方か!?
0 件のコメント:
コメントを投稿